MBA留学は本当に人生を変えるか?

from 東洋経済オンライン 12月1日(土)11時30分配信

グローバルエリート予備軍は今、何を学ぶか(写真はハーバードビジネススクール)

世界最難関の経営大学院、スタンフォード大学ビジネススクールのミッションは、“Change Lives, Change Organizations, Change the World”。

世の中を変え、組織を変え、そして、世界を変革するグローバル人材を育成する。このミッションが象徴するように、欧米のビジネススクールでの学びや経験は、学生、特に留学生の人生を大きく変えると言われている。

私自身、2000年にコロンビア大学ビジネススクールに留学し、自分の人生が変わるのを実感した一人だ。

7年間勤めたNHKを退職し、多額の教育ローンを背負いながらの留学だった。背水の陣で、「MBA留学」に人生を賭けて挑んだのである。

その結果、自分の価値観が全部入れ替わるような、強烈な体験をした。投資額以上のリターンを得たと言ってもいい。

過去の成功体験なんか通用しない、自分が成長し、変わり続けることでしか、グローバルリーダーにはなれないことを、留学して初めて知った。

ビジネススクールは、まさに「世界中から集まってきた学生たちから発せられる強烈なエネルギーのパワースポット」。友人たちのエネルギーに圧倒されながらも、目標に向かって前向きに、主体的に、かつ謙虚に学ぶことの大切さを学んだ1年半だった。

MBA留学で何が変わるのか?

日本に帰国後、世界的な経営コンサルティング会社、ボストンコンサルティンググループ(BCG)に就職した。在職中、「多くの日本人にMBA留学に挑戦してほしい」と思い、自らの留学体験記を単行本『ゼロからのMBA』(新潮社)にまとめ、出版させていただいた。

その後BCGから、外資系テレビ局に転職。今年から独立して、仕事をしている。

現在も、コロンビア大学ビジネススクールの入学面接官を務めたり、MBA留学関連のセミナーや説明会に参加したり、ビジネススクールとのかかわりは深い。

ビジネススクールの卒業生として、MBA留学に挑戦している人たちから、最もよく聞かれる質問が「MBA留学で何が変わりますか?」という質問だ。

2003年にMBA留学体験を書いた本を出版。あれから9年・・・

その質問について、私は「まず人生が変わる」と答えることにしている。間違いなく、留学前と留学後で、私の人生は大きく変わったからだ。

留学しなかったら、外資系企業で働くこともなければ、起業しようと考えたりすることもなかったはずだ。

何より視野が広がり、世界がこんなに近く感じることもなかっただろう。

外資系テレビ局で働いていたとき、アメリカ本社と日本支社、両方の視点から、自分の仕事や役割を見ることができたのは、MBA留学のおかげだ。

経営コンサルタントがよく言う「アリの目、タカの目」の「タカの目」を身に付けることができたとも言える。

それまでは、NHKの一人の取材者の視点で、NHKや日本や世界を見ていたのが(アリの目)、留学後は、アメリカ本社のグローバル経営の視点から、俯瞰で物事を見ることができるようになった(タカの目)。

会社組織に例えれば、社員として「局所最適」で仕事をしていたのが、経営者の目から会社を、自分の立場を、俯瞰で見ながら、「全体最適」を目指して、仕事をするようになったと言える。

「会社を起業し、社会に貢献する人が尊敬される」ことも知ったのも、留学時代だ。ビジネスを創り出し、雇用をもたらし、儲けを社会に還元する起業は、グローバルエリートの世界では「最も価値あるもの」。

コロンビア大学ビジネススクールの同級生の多くが、起業に挑戦し、現在は経営者となっている。

生き方のグローバルスタンダードを学ぶ

今、書店では「人生を変える本」と、ハーバード大学などアメリカの名門大学の授業を紹介する「白熱教室本」が、人気を呼んでいる。

「日本を変えたい」「自分を変えたい」と思う意識の高い日本人の方々が、一流の大学から「生き方のグローバルスタンダード」を学びたいと思っている証しではないかと思う。

こうした読者に向けて、「実際、『白熱教室』や『MBA留学』がどのように日本人の人生を変えるのか」をお伝えしたいと思ったのが、この連載を始めようと思ったきっかけだ。

白熱教室で人生が変わるかどうかは、結局、「授業を受けた人がそれをきっかけにどのように変われるか」にかかっているからである。

現在、欧米のトップビジネススクールには、まさに「人生を変えつつある」日本人留学生たちが、日本代表として奮闘している。

そこでこの連載では、ハーバード、スタンフォード、コロンビア、ウォートン(ペンシルベニア)など、トップビジネススクールの日本人留学生を取材し、「MBA留学が人生をどう変えるのか」、留学生の成長記録を現在進行形でお伝えしていきたい。

金融はもはやメインストリームじゃない?

自分が留学していた2000年ごろと、ビジネススクールはどのぐらい変わっているのか?

早速、コロンビア大学ビジネススクールの日本人留学生、川本暁彦さん(36)に取材をしてみた。

まず、授業について聞いてみると、私が留学していた頃に人気だった授業は、ほとんど残っていないとのことだった。

「コロンビアでは、バリュー投資関連の授業が人気を集めていて、名物教授のブルース・グリーンウォルド教授のLegends in Value Investing(バリュー投資・上級編)は、やはり人気がありますね。ウィリアム・ダガン准教授のNapoleon’s Glance(ナポレオンのひらめき)も、学生から高い評価を得ています)(川本さん)。

日本で人気を得た「選択の科学」は通常のカリキュラムでは受けられない

グリーンウォルド教授の授業内容については、『競争戦略の謎を解く』(ダイヤモンド社)や『バリュー投資入門』(日本経済新聞社)、ダガン准教授の授業は『戦略は直観に従う』(東洋経済新報社)に詳しい。

「コロンビア白熱教室」として11年にNHKで放映され、話題になったシーナ・アイエンガー教授の『選択の科学』の授業は、テレビ放映用の特別講義で、通常のカリキュラムにはない授業。

コロンビアに入学しても、残念ながら、あの白熱教室は存在しない。12年現在、アイエンガー教授は、エグゼクティブMBAプログラムでリーダーシップを教えている。

ハーバード大学ビジネススクールに留学中の笹本康太郎さん(33)は、ハーバードでは、リーダーシップやマネジメントの授業に加え、アントレプレナーシップ(起業家精神)、新興国ビジネス、ソーシャル・ビジネスの授業などが、人気を集めていると言う。

ハーバード大学ビジネススクールでは、フィールドワークを取り入れた授業が必修に

「2010年に新しい学長が就任してから、カリキュラムの改革が行われています。ハーバードといえば、ケーススタディ(実際、企業が直面した問題や事例を元に、学生が議論する授業)が有名ですが、昨年から、実践的なフィールドワークを取り入れた授業が必修になりました。

たとえば、『学生が新興国を訪れ、コンサルティング業務などを通じて、現地のビジネス環境を直接学ぶ授業』や、『3000ドルを元手に小規模なビジネスを起業し、ベンチャーキャピタルからの評価を競う授業』などです」(笹本さん)。

ペンシルベニア大学ウォートンスクールの浅原大輔さん(33)は、現在、ウォートン・サンフランシスコ校で、4カ月間の特別プログラムに参加している。アントレプレナーシップに興味がある人たちが選抜され、西海岸で集中して、起業家精神やベンチャーキャピタル業務などを学び、実践する。

「学校を挙げて、起業やソーシャルビジネスを推奨しているのでは、と思うほど、力を入れていますよね。ウォートンでは、僕が今参加している特別プログラムもそうですが、面白い起業アイデアには指導教官や資金も提供され、在学中、すぐに起業できるような環境が整っています。また、スタートアップ企業との共同プロジェクトも数多くありますね」

就職先にも変化が表れている。

私が留学していた頃に最も人気があったのは、投資銀行だった。それがすっかり鳴りを潜め、今や、起業する人や、ソーシャルビジネスを始める人が、「かっこいい」のだそうだ。

「ハーバードでは、『目先の給料のよさに惑わされず、自分が本当にやりたいこと、世界にインパクトを与えられるようなことに取り組みなさい』ということを繰り返し、教え込まれます。

『夏休みにどこでインターンやった?』と学生同士で報告し合ったときも、話題の中心になるのは、やはりスタートアップ企業での体験で、投資銀行でインターンとして働いた友人は、少し肩身が狭そうにしていましたね」と笹本さん。

前出の川本さんも、次のように語る。

「コロンビアでは相変わらず金融系に就職する人が多いですが、それでも、以前に比べると減っていると思います。全体的に給料が下がっているのに、依然としてハードワークなところが、人気が下がっている原因ではないでしょうか」

カリキュラムや就職先が世界経済の趨勢に応じて、変わっていくのはもちろんのことだが、驚くべきは、日本人留学生の数の減り方だろう。

ハーバードの日本人学生は、1学年、笹本さんを含め全部で7人。900名中7名だ。日本人学生が比較的多いことで知られていたウォートンでさえ、840人中、日本人は浅原さんを含め4人。コロンビアに至っては、11年9月に入学した日本人は、550名中、川本さん1人しかいない。

クラスに日本人はたった1人

その他のトップビジネススクールの学生に聞いてみても、日本人留学生(日系アメリカ人などは除く)の数は、だいたい1学年に数人から10人程度。日本のGDP(世界第3位)を考えれば、信じられないぐらいの少なさだ。

私が留学していた10年前に比べても、半分ぐらいの人数ではないかと思う。実際、欧米のビジネススクールを受験する際に必須となっているGMAT試験の日本人受験者数の推移を見てみても、02年に、延べ5620人だった受験数が、11年は2518人と半分まで落ち込んでいる。

GMAT試験を運営しているGMAC(Graduate Management Admission Council)は、日本人受験者数の減少について、「日本では、ビジネススクールを受験する世代の人口(20代後半)が少なくなっているからだ」と説明している。

しかし、それだけで、10年前の「半分」にはならないだろう。

日本企業が社費留学制度をなくす傾向にあること、円高とはいえ、高額な授業料(ハーバードビジネススクールの2年間で、約11万ドル=900万円)が、私費留学を志す人の足かせとなっている。

さらに、出願しても「受からない」という現実がある。コロンビア大学ビジネススクールで、550人中たった1人の日本人として奮闘する川本さんは、次のように語る。

「入学して最初の学生同士の飲み会は、ちょっと苦痛でしたね。自分から積極的にアプローチしないと知り合いさえもできない状況でした。あまりに日本人が少ないので、コロンビアの入学担当官に原因を聞いたことがあります。

いろいろと理由はあるかもしれませんが、僕が受験した年、そもそも3人の日本人にしか合格を出していなかったことがわかり、驚きました。日本人の英語力が相対的に低いのも、合格を出しにくい理由の1つかもしれません」

中国や韓国の企業は、”貴重なお客さん”

それに比べて、躍進しているのが、韓国人と中国人だ。コロンビアには、それぞれ、1学年、20人から30人在籍していて、大グループを形成しているという。ウォートンでも、韓国人が約20人、中国人(台湾・シンガポール・香港含む)は50人ぐらい在籍しているそうだ。

確かに11年のGMAT受験人数(国籍別)を比較しても、中国は日本の16倍で約4万人、韓国は2倍で約5000人。

1学年20人から30人と言えば、1980年代後半から90年代初頭の日本人留学生の数に匹敵する。今は中国と韓国がビジネススクールバブルを迎えているのだろうか。

「韓国人の留学生はサムスン、LG、ヒュンダイなど、大企業からの社費留学が多いですね。卒業後のことを考えなくていい分、よくゴルフをしたりしてのんびりした雰囲気です。

韓国人コミュニティの中だけにいて、あまりクラスメートとも交流がない人もいます。バブルの時代の日本人留学生って、こんな感じだったのかなと想像することもあります」(浅原さん)

米ブルームバーグ・ビジネスウィーク誌(オンライン版)は、10年3月11日付けで、「Why MBAs are Going East」という特集記事を掲載し、アメリカのビジネススクールの学生が、「成長するアジア企業」に活躍の場を求めて、あえて中国や韓国の企業に就職する様子を伝えている。

記事によれば、韓国サムスン電子は09年、米トップビジネススクールから50人もの学生を採用している。韓国人学生を除いて、50人である。中でも、ノースウェスタン大学ケロッグスクールからは、16人も採用したのだという。

学生の就職率や就職後の初任給は、ビジネススクールの評価やランキングに大きな影響を与える。中国や韓国の企業は、卒業生を高給で採用してくれる、貴重なお客さんなのだ。

「授業でも、中国4大銀行の躍進や、サムスンのグローバル経営戦略など、今、学ぶべき事例として取り上げられることが多いですね。残念ながら、日本企業の事例は、トヨタのオペレーション戦略など、かなり昔の事例が取り上げられています」(川本さん)。

確かに、過去10年で売上を3倍以上に伸ばしたサムスン電子(01年約3兆円から11年約11兆円)に比べれば、日本企業に元気がないのは否めない。

ビジネススクール側からすれば、寄付金も採用数も減っている日本から学生を採用するよりも中国や韓国から、というのは、当然なのかもしれない。

日本代表選手が”孤軍奮闘”

現在、トップビジネススクールに在籍している日本人留学生は、この厳しい状況の中で、合格を勝ち取った「エリート中のエリート」だと言える。

取材を始めてみて、見えてきたのは、クラスに1人、あるいは学年に1人の日本人として孤軍奮闘する日本人留学生の姿だ。

ビジネススクールの教室は、通常、教壇を座席が扇形に囲む劇場のようなつくりになっていて、教壇からは、全学生の顔と名前が見えるようになっている。

アメリカのビジネススクールの場合、1クラス60人から90人ぐらいで構成され、60%から70%が北米出身者、10%から15%がアジア人、10%がヨーロッパ人だ。

国連やオリンピックさながらのクラスの中で、日本人は1人。クラスメート全員が、その日本人を通じて「日本」について学ぶことになり、留学生はまさに日本代表選手としての”活躍”が求められる。

前出の笹本さんは言う。

「90人のクラスで日本人は僕1人。ハーバードでは日本企業の事例を扱うことは、いまだに多いんです。日本から貪欲に学ぼうとする89人のクラスメートたちに、自分の実体験を交えながら、ケースでは表現しきれていない日本企業や日本の経営手法の価値をしっかりと伝えていくことが、僕の役割の1つではないかと思っています」

次回からは、欧米のトップビジネススクールの日本人留学生を各校1人ずつフィーチャーし、その成長の過程をお伝えしていく。”日本代表”としてビジネススクールに貢献しながら、どう人生が変わりつつあるのか?

「授業」「人との出会い」「言葉」をキーワードに、激アツな留学生活を実況中継していきたい。

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几年前,我把影评家罗杰·埃伯特《暗中清醒》一书所列的优秀影片记录下来,放入Netflix账户,一部接着一部看。看完后,电影欣赏眼界高了不少。对于文学,我想也可一样,找一可靠老师,拿着他的书单,一本一本往下读。

《塑造了美国的二十五本书》(Twenty-five Books That Shaped America)就是这样一本入门书。书中介绍的作品,多为美国文学经典。书中介绍作品包括:《本杰明·富兰克林自传》、《最后一个莫西干人》、《红字》、《瓦尔登湖》、《白鲸》、《草叶集》、《小妇人》、《我的安东尼亚》、《哈克贝里·芬历险记》、《男孩的意志》、《波士顿以北》、《了不起的盖茨比》、《太阳照样升起》、《疲惫的蓝调》、《美国》、《愤怒的葡萄》、《他们的眼睛看上帝》、《去吧,摩西》、《奥吉·马奇历险记》、《在路上》、《杀死一只知更鸟》、《所罗门之歌》、《爱之药》和《拍卖第44号》。这些多为大学英文系耳熟能详的作品,也是认识美国的一个途径。但此书声称要列举“塑造美国”的书,所以也包括苏斯博士《戴帽子的猫》之类儿童读物。这种读物用几百个字的词汇,琅琅上口的句子,让儿童学着去独立阅读。

作者托马斯·福斯特(Thomas C . Foster)是密歇根大学英文系教授,其作品《如何像教授一样读文学》、《如何像教授一样看小说》在美国传播甚广。福斯特教授见多识广,书中旁征博引,思路开阔,又通俗易懂,使得文学欣赏不再说不清道不明。例如,作者以《天路历程》为密钥,解读《小妇人》中的罪与善、对与错。因为这种以书解书的做法,“二十五本”书的一说颇有“欺骗性”,说这些书的时候,作者夹枪带棒说了好多其他作品。他说《天路历程》如若旅人行路所用地图。我们看着作者的解读,如跟着导游,欣赏美国文学世界的景观。

一个文学教授写这样的启蒙图书,实在是小菜一碟,作家掌故和作品关联他信手拈来。比如写索尔·贝娄早年玩“存在主义”作品一败涂地,是因“美国人不玩存在主义……或许你得离开这些让人幽闭恐怖症发作的欧陆小说,把作品写得松散点、粗俗点,甚至下流点,总之更美国一点。”这种描述虽算自嘲,却也让人看到更显“文艺”的欧陆文学和大大咧咧的美国文学在风格上的歧异。

此书是根据作者课堂讲稿整理而成,但阅读对象为普通人,所以风格比较“百家讲坛”,比较口语化,很耐读。描述《在路上》的时候,他说你要是看了此书而自我认识不变,“要么你不是美国人,要么你不是男人,要么你从未在干燥的双车道高速公路上,把所有车窗摇下,驱车几百里,融进汗味与男人味、美丽和荣耀之中,去品味那生存的甜美和忧伤。”今夏我们这里持续高温,我的车子空调坏掉,我碰巧就经常这么开车,想着《在路上》的感觉,就忘了火辣辣的阳光,而想起《在路上》的景象来———如果不是热昏了,那一定是文学这毒品给我产生了幻觉了。

作者也娓娓道来告诉了我们为什么一些作品在读者中的成长史。《了不起的盖茨比》在菲茨杰拉德生前的总销量,不及而今一年。之所以越来越受欢迎,福斯特认为是此书戳到了我们的痛处。此书写的是“观望”与“偷窥”。书里每个人都看着他人的生活,寻找自己的不可得,忽视自身的拥有。书中所写的是一群幻灭的人,一群糜烂的人,一群住在精神荒原的人。“这群人就是我们自己”,包括菲茨杰拉德自己。福斯特说菲茨杰拉德在小说中对于人性的洞见,并没有拯救他自己。人性太威武,知识无计可施。这是一大反讽,不过福斯特说道,“如果你想思考美国文学,你最好准备好接触反讽。”福斯特还能帮助普通读者理清美国文学中的相互关联,比如从海明威的文字,看到雷蒙德?卡佛对其极简主义风格的传承。

福斯特是一个愿意走出书斋,给大众讲文学的学者。这种事情做起来有价值,但容易媚俗。此书另辟蹊径,从认识美国认识美国精神的角度去写文学,号称写的是“塑造了美国的二十五本书”,颇为狡猾。从文学角度看,所选作品未必都属上佳,但却从多个侧面讲述了美国是怎么回事:《草叶集》里的美国是一个“往前走莫回头”的美国,一个开拓而不过多回顾的美国;《瓦尔登湖》里的美国是一个非暴力不合作的美国,也是自给自足怡然自乐的美国;《红字》里的美国是一个灵与肉征战,善恶相互转变的美国;《去吧,摩西》里的美国是战后反思的美国,是寻找南方归属的美国;《愤怒的葡萄》里的美国是一个直面苦难,后又在苦难中实现升华的美国。

文学确实能成为一个国家的一面镜子。当年赛珍珠翻译《水浒传》后,南京一帮学生学者请她去参加宴会。赛珍珠到了,发觉是鸿门宴。邀请者请她不要在美国出版《水浒传》的译本(赛珍珠译作《四海之内皆兄弟》),因为《水浒传》过于血腥,还有吃人肉包子之类的描述。这些学者害怕在并不了解中国的西方读者心目当中,留下中国人是野蛮人的不良印象。中国的“面子文化”看来是从古至今一以贯之。但从某种意义上说,我又能认同这些学者的顾虑。在文化出口比较少的情况下,取样狭隘,冷不丁抛出一部《水浒传》,对于中国毫无认知的西方读者,不产生偏见才怪。量变才可质变,不增加接触的量和面,三本四本类似的书,自然会产生偏见。

多少年来,在文学正典的选择上,我们对于古代瑰宝也是偏食的。“四大名著”出了一个版本又一个版本,翻拍了一次又一次,成了四堵墙,堵住了其它经典的传扬和自我认知之路。很多家长也是很笨的,你说“四大名著”,他就不给孩子买第五大名著。福斯特这本书给我最大的启发是:其实影响了我们这个民族的书何其多也,四大哪里挡得住?当然,我这里说的,也不光是数字的大小,也有思路的宽窄。如今的读者,有时候像是遇到了鬼打墙一样,在同样的小圈子里转。这有点像《马大帅》里的体育老师———范德彪拿块砖划了个圈,他还就真照着这个圈打架,照着这个圈认输。何不去想想范德彪划的圈,本来就是忽悠?3059

By cyberagui Posted in 读书

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《塑造了美国的二十五本书》(Twenty-five Books That Shaped America)就是这样一本入门书。书中介绍的作品,多为美国文学经典。书中介绍作品包括:《本杰明·富兰克林自传》、《最后一个莫西干人》、《红字》、《瓦尔登湖》、《白鲸》、《草叶集》、《小妇人》、《我的安东尼亚》、《哈克贝里·芬历险记》、《男孩的意志》、《波士顿以北》、《了不起的盖茨比》、《太阳照样升起》、《疲惫的蓝调》、《美国》、《愤怒的葡萄》、《他们的眼睛看上帝》、《去吧,摩西》、《奥吉·马奇历险记》、《在路上》、《杀死一只知更鸟》、《所罗门之歌》、《爱之药》和《拍卖第44号》。这些多为大学英文系耳熟能详的作品,也是认识美国的一个途径。但此书声称要列举“塑造美国”的书,所以也包括苏斯博士《戴帽子的猫》之类儿童读物。这种读物用几百个字的词汇,琅琅上口的句子,让儿童学着去独立阅读。

作者托马斯·福斯特(Thomas C . Foster)是密歇根大学英文系教授,其作品《如何像教授一样读文学》、《如何像教授一样看小说》在美国传播甚广。福斯特教授见多识广,书中旁征博引,思路开阔,又通俗易懂,使得文学欣赏不再说不清道不明。例如,作者以《天路历程》为密钥,解读《小妇人》中的罪与善、对与错。因为这种以书解书的做法,“二十五本”书的一说颇有“欺骗性”,说这些书的时候,作者夹枪带棒说了好多其他作品。他说《天路历程》如若旅人行路所用地图。我们看着作者的解读,如跟着导游,欣赏美国文学世界的景观。

一个文学教授写这样的启蒙图书,实在是小菜一碟,作家掌故和作品关联他信手拈来。比如写索尔·贝娄早年玩“存在主义”作品一败涂地,是因“美国人不玩存在主义……或许你得离开这些让人幽闭恐怖症发作的欧陆小说,把作品写得松散点、粗俗点,甚至下流点,总之更美国一点。”这种描述虽算自嘲,却也让人看到更显“文艺”的欧陆文学和大大咧咧的美国文学在风格上的歧异。

此书是根据作者课堂讲稿整理而成,但阅读对象为普通人,所以风格比较“百家讲坛”,比较口语化,很耐读。描述《在路上》的时候,他说你要是看了此书而自我认识不变,“要么你不是美国人,要么你不是男人,要么你从未在干燥的双车道高速公路上,把所有车窗摇下,驱车几百里,融进汗味与男人味、美丽和荣耀之中,去品味那生存的甜美和忧伤。”今夏我们这里持续高温,我的车子空调坏掉,我碰巧就经常这么开车,想着《在路上》的感觉,就忘了火辣辣的阳光,而想起《在路上》的景象来———如果不是热昏了,那一定是文学这毒品给我产生了幻觉了。

作者也娓娓道来告诉了我们为什么一些作品在读者中的成长史。《了不起的盖茨比》在菲茨杰拉德生前的总销量,不及而今一年。之所以越来越受欢迎,福斯特认为是此书戳到了我们的痛处。此书写的是“观望”与“偷窥”。书里每个人都看着他人的生活,寻找自己的不可得,忽视自身的拥有。书中所写的是一群幻灭的人,一群糜烂的人,一群住在精神荒原的人。“这群人就是我们自己”,包括菲茨杰拉德自己。福斯特说菲茨杰拉德在小说中对于人性的洞见,并没有拯救他自己。人性太威武,知识无计可施。这是一大反讽,不过福斯特说道,“如果你想思考美国文学,你最好准备好接触反讽。”福斯特还能帮助普通读者理清美国文学中的相互关联,比如从海明威的文字,看到雷蒙德?卡佛对其极简主义风格的传承。

福斯特是一个愿意走出书斋,给大众讲文学的学者。这种事情做起来有价值,但容易媚俗。此书另辟蹊径,从认识美国认识美国精神的角度去写文学,号称写的是“塑造了美国的二十五本书”,颇为狡猾。从文学角度看,所选作品未必都属上佳,但却从多个侧面讲述了美国是怎么回事:《草叶集》里的美国是一个“往前走莫回头”的美国,一个开拓而不过多回顾的美国;《瓦尔登湖》里的美国是一个非暴力不合作的美国,也是自给自足怡然自乐的美国;《红字》里的美国是一个灵与肉征战,善恶相互转变的美国;《去吧,摩西》里的美国是战后反思的美国,是寻找南方归属的美国;《愤怒的葡萄》里的美国是一个直面苦难,后又在苦难中实现升华的美国。

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多少年来,在文学正典的选择上,我们对于古代瑰宝也是偏食的。“四大名著”出了一个版本又一个版本,翻拍了一次又一次,成了四堵墙,堵住了其它经典的传扬和自我认知之路。很多家长也是很笨的,你说“四大名著”,他就不给孩子买第五大名著。福斯特这本书给我最大的启发是:其实影响了我们这个民族的书何其多也,四大哪里挡得住?当然,我这里说的,也不光是数字的大小,也有思路的宽窄。如今的读者,有时候像是遇到了鬼打墙一样,在同样的小圈子里转。这有点像《马大帅》里的体育老师———范德彪拿块砖划了个圈,他还就真照着这个圈打架,照着这个圈认输。何不去想想范德彪划的圈,本来就是忽悠?3059

电影:陈英雄的挪威森林

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电影:陈英雄的挪威森林

越南籍导演陈英雄执导的《挪威的森林》去年年底在日本公映。这部根据村上春树最著名小说的电影在筹拍之时就倍受关注。尽管上映规模引人注目,但是票房成绩并不如预期的理想。13万人在上映后第一个周末进入影院,票房收入超过1亿8371万,在12月14日公开的票房成绩排行榜中仅位列第三。

然而这部电影引起的争议却实实在在是空前的。

1987年9月,38岁的村上春树出版了长篇小说《挪威的森林》,上下册畅销430万部,随后译成多种文字在世界流行。当时迷恋渡边与直子、绿子的年轻人,如今已步入中年。许多人不可避免想让阅读小说时的想象呈现在眼前,然而进入影院之后,他们才发现并非进入自己的挪威森林之梦,而是陈英雄的挪威森林。
  
批评:越南风的挪威森林

陈英雄读到《挪威的森林》是在小说初版7年之后,它被译成法语。那时候他刚刚推出自己的第一部电影《青木瓜之味》,摘走了戛纳电影节金摄影机奖和恺撒最佳外语片奖,从此一举成名。

在他的电影里充满亚洲南方的潮湿、清润与枝繁叶茂。这种宁静被认为与村上春树的风格有某种异曲同工之妙。

2004年,陈英雄与村上春树见面,开始谈拍摄《挪威的森林》事宜。这一谈就是4年,2008年,陈英雄终于得到了村上春树的许可,开始筹拍这部尚未出生就广为人知的作品。陈英雄在第67届威尼斯电影节上曾说,村上春树对剧本做了很多批注,但是最终要求他“按照自己脑子里的情景来拍,不需要跟着小说跑。”

改编这样著名的小说,向来不是一件讨好的事。《挪威的森林》曾被视作最不可能拍成电影的小说,而陈英雄阅读的法语版《挪威的森林》,又为他理解这部作品加上了一道翻译的屏障。因此,陈英雄必然要面临上千万读者近乎严苛的挑剔。

事实也确实如此。影片自从在第67届威尼斯电影节亮相以来,口碑一直走低。日本观众普遍认为陈英雄没有把握到原著小说的精髓,只能以肤浅的影像技巧来遮掩。

更加矛盾的问题在于,没有读过小说的人,很难理解影片中人物的感情;而读过小说的人,则会觉得电影支离破碎,与原作的气味大相径庭。最为鲜明的是,电影虽然是讲日本的故事,但是几乎见不到日本清澈干燥的空气,取而代之的是东南亚潮湿的碧绿与丰沛的雨水。尽管有影评人认为这种越南风的独特没“也不算太差”,但是还是只给电影打了50分。
  

改编:陈英雄与日本的隔膜

陈英雄的《挪威的森林》,争议颇多的另一个地方在于电影对原著的改编。

虽然陈英雄保留了原著的线索与人物,将小说里的“伤痛之美”用舒缓的影像风格表达了出来,但是,也许是由于对日本的隔膜,他并没有能将村上春树绝美的文字、细节和意境影像化,也没有将原著里年轻人对于生与死的思考,生命真谛的追寻,通过性来探究存在的意义,以及对于自我和爱情的诚实等意念,美好且发人深省地呈现出来。

电影的开篇是处理得令人称道的。小说由第一人称讲述,37岁的“我”(渡边)在汉堡机场降落,机舱里响起甲壳虫乐队的《挪威的森林》,我便陷入对往事的回忆,不能自已。陈英雄将故事重置,将开场定为片中三个重要人物(渡边、直子、木月)的少年时期,即小说中通过直子与渡边回忆表达出来的一段过去,澄澈,清明。影片选取的意象是紫阳花,初夏少女的短裙,游泳池碧蓝的水面。但一切戛然而止,木月的自杀打破了一切。选择这样的叙述方式,陈英雄自认,“是想要重新创造新鲜伤口的疼痛,这也是要用现在时态写剧本的最大原因,做出这个决定非常困难。”

然而在接下来的叙述中,陈英雄与小说作者的距离却无法避免。

让很多人感到遗憾的是陈英雄对于直子和绿子的安排。饰演直子的菊地凛子与直子20岁的“新鲜洁净”的身体相去甚远。菊地凛子似乎过分要表达直子的歇斯底里与神经质,使得这个原本脆弱抑郁的人物显出过分难以捉摸的东西。而原本活泼可爱的绿子的戏份却被删减得莫名其妙。

电影的结尾中,直子过世,渡边与玲子上过床后,在电话里对绿子说出“我爱你”,又让人十分不解。小说结尾并未出现“我爱你”这三个字,仅仅是渡边的沉默与绿子的一句“现在你在哪里”。电影里直接没有余地的表达,与小说中余味不尽的空茫,哪一个更喜欢,只能是个人观点。
  

性:影像的唯美被文字抛在身后

小说背景在1968年至1970年,正是日本经济高速发展期,席卷西方的青年人造反运动刚刚过去,日本流行欧美风潮,工会运动热情高涨。渡边在这样的时代有茫然,他试图逃避、内省。

电影有关时代感的把握确实很成功。陈英雄对道具布景的选择近乎严苛,力求还原当时的场景,甚至会为了找到一个合适的杯子而停止整个拍摄。而优秀的摄影师也让这些细节呈现淋漓尽致。当渡边在走廊上跑过,淡黄色的光线随着飞扬的窗帘从窗外充溢进来,画面美丽得令人屏息。确实如日本著名导演行定勋梭认为的,光凭摄影,这部电影也是值得一看的。

在小说中,性是作者试图用以探索生命的一种途经。不管是原作还是译本中有关性爱的描写,都曾让无数读者为之震撼。村上春树曾经对记者说:“我是想把它写得纯净些的。生殖器也好性行为也好,越现实地写越没有腥味。”

他确实做到了。小说中对于性的描写十分唯美,并无露骨的感官煽动,而是带着青春的感伤。陈英雄试图抓住这样一个亮点,电影也力在“唯美”上下功夫,用光线、植物、雨声来营造氛围。不过小说因为文字的模糊性,毕竟有巨大的想象空间,电影却是直观的画面,一旦呈现,即刻定型,很难去契合每个人的想象。

不得不说,菊地凛子饰演的直子在几段中的表现都不“唯美”。小说中“沐浴着柔和月色的直子身体,宛似刚刚降生不久的崭新肉体,柔光熠熠,令人不胜怜爱”。陈英雄也曾谈到,直子的每次性爱都很重要,是冲击人物内心的情节。他说:“我想把镜头集中在表现他们面部表情的变化,以透露内心的冲突……像第一场激情戏,我希望它是有些神经质的,就像我自己的经验,直子应该感觉到惊慌、不知所措,甚至恐惧。”

也许是演员未能领会原作与导演的意图,也许是影像呈现与文学手法的隔膜,最终电影里没有了直子“沐浴着柔和月光”,“宛似刚刚降生不久”的美丽身体,只剩下痛苦扭曲的脸与哀鸣。无论是在暴雨中的小屋,还是在茫茫无尽的绿野,还是流水与雪原,都不能还原小说带来的震撼。当然,如果仔细欣赏导演苦心安排的风景,也不失为视觉方面的享受。

又及玲子,直子的病友,兼不专业的康复老师,在影片里并未交代她之前的经历——被同性恋少女引诱,与之发生关系。事后少女诬其猥亵,导致夫离子散,八年以来再未有过男女之情。她和渡边上床,是对过去的告别。小说里玲子在弹完五十支曲子后,说:“渡边,跟我做那个吧。”“不可思议。”渡边说, “我也在想同样的事。”但在电影里这样的感觉产生了微妙的变化。
  
村上春树在他写于23年前的小说里,写出了年轻人无可救药的孤独、无可排遣的空虚、无可言喻的无奈和怅惘。陈英雄的转述,在与原作对比来看,似乎并不成功。这印证了最初人们对他的担心。电影依然非常美丽。小说留给人充足的想象空间,付诸影像后自然难以满足每一个人的期许。能否在最初与原作对比的本能反应中走出来,从陈英雄的电影中重新发现一些被忽略的美,这依然值得期待。毕竟走入影院时,在人们耳边回荡的依然是那首熟悉的《挪威的森林》。

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廖伟棠:2010阅读回顾

Hi,
我在iWeekly·周末画报 for iPhone中发现了这篇文章,想与你分享:

廖伟棠:2010阅读回顾

北京的爱书人绿茶在微博上征集个人的2010年阅读书单,我忍不住给了他两份——就跟我买书一样贪婪。一份是我在去年读过的难忘之书:《张枣的诗》、巴什拉《空间的诗学》、《商禽诗全集》、保尔.戴维斯《宇宙的最后三分钟》、森山大道《犬的记忆》及续篇、杉本博司《直到长出青苔》、《史蒂文斯诗选》,以及刘慈欣的科幻史诗巨著《三体》三部曲。这里故意回避了我认真读过并且专门写了书评的书:田晓菲《烽火与流星:萧梁王朝的文学与文化》、董启章的《学习时代》、张铁志的《时代的噪音》、张承志的《敬重与惜别——致日本》,还有重读的西西《我城》与《哀悼乳房》。

还有一份是去年读过的十本最好的旧书,那都是没有人愿意约我写书评的古怪老书:李祖桓《仇池国志》、万籁鸣《我与孙悟空》、《溥仪离开紫禁城以后:爱新觉罗家族成员的回忆》、木村伊兵卫摄影集《秋田》、石森章太郎早期实验漫画《ジュン》、Robert Frank罕见的一本小摄影集《Thank You》、史景迁神奇的作品《胡若望的疑问》、一本诗意的六十年代科学著作《我国对流云的宏观特征问题》、被遗忘的晚清烈士《刘光弟集》和日本流浪俳人种田山头火的《山头火俳句集》。

但是今天细理藏书,发现还有这么一张书单,是我正在读,有的已经整整读了一年的:丸谷才一的小说集《树影谭》、帝奇亚诺・坦尚尼的《最后的邀请:父予子的告别礼物》、森山大道的《迈向另一个国度》、J.D.塞林格《抬高房梁,木匠们/西摩小传》、还有弗朗索瓦・维庸的《遗嘱集》……我发现这些书都和告别有关,而我一再地拖延读完它们,其实是拖延诀别的时间。

江淹《别赋》开篇则剧叹:“黯然銷魂者,唯别而已矣!” 丸谷才一的小说集《树影谭》萦绕着这样的惆怅难以消解,尤其在最后一篇心血之作<横时雨>。丸谷才一在日本鼎鼎大名,因为他是村上春树的“伯乐”,但翻译到中国来这是第一次。吸引我的是他这批中篇小说的题目:树影谭、初旅、残年、横时雨……别有一番日本的幽然黯然于其中,但他的冷静清晰文笔、利落结构却很不日本,更近英美小说——而且丸谷氏素来以反对日本私小说著名,反对自怜和暴露癖,也反对感伤。<横时雨>即为此,它巧合地与我去年最关注的一位日本俳句诗人种田山头火有关,写的是文学研究者“我”通过对种田山头火生平和晚年作品的解读,来重新认识在记忆中深藏的父亲——“我”一厢情愿地认为回忆里危机中的父亲曾经与流浪的山头火偶遇,随后走向各自的末路。“横时雨”是他们留给儿子的告别密码,那一个时代如雨 “横死”于路中,这个告别如此决绝,山头火的自甘颓废也好,父亲的挣扎也好,最后潜归新世界的一片迷雾中。

两代人没有实现和解,这是东方式的宿命。意大利的冒险家帝奇亚诺・坦尚尼(Tiziano Terzani)却要反抗这个宿命,这个以历险为能事的超越了记者身份的意大利名记,一生纵横远东各国最危险的地方,曾被封闭时期的中国驱逐出境,写下《禁区之后:在隐秘的中国旅行》,也曾听信香港算命先生的预言,一年不坐飞机却四处探访各地的占卜家,写成《算命先生告诉我:工作与命运的重整游戏》。但他在临终前三个月,选择了和儿子对话,留下的是这本《最后的邀请:父予子的告别礼物》。读时有痛,因为你分明的感觉到死神的脚步在压迫他的讲述,但这个父亲却巧妙地用他自己的疯狂方式,把与世界跳舞的秘诀传授给儿子——其实是传授给我们这些已经不懂得冒险为何物的早衰青年。这样的话告别就不只是一种消极的减损,反而是一次重新启程。死亡也获得了这样的意义,就像另一个我喜欢的意大利诗人夸西莫多所说的: “如果你愿意/把我投到种子里/我已倦于/沉睡在我身上的重力”。

森山大道的《迈向另一个国度》则是与自己的告别仪式,他曾经用《再见摄影》来完成他与传统摄影观念的彻底决裂,《迈向另一个国度》是文字,这个影像上酷派的代表,文字也一样的酷。他拥有一般摄影师罕见的文学才华,这些半是游记半是自我剖析日记的散文,运笔跌宕自如,冷静斩截,总是在比恰到好处前一点点的地方嘎然而止,特别让人心有戚戚,留下一个大空虚。最好的一篇《面影记》书写这么一个自喻为野犬的孤独男人的爱情,就是如此,就像雷蒙德・卡佛的小说一样。永远渴盼另一个国度,永远渴盼出发上路,二十世纪的摄影师接过了十九世纪诗人们的这个宿命,因此也不得对留在这个国度的幸福报以怨言。

去年许多影响过我的作家辞世而去,J.D.塞林格是其中最让人耿耿的一个,就像他的《九故事集》一样,痛到恰好处、是让人说不出话的。为此我重读他的《抬高房梁,木匠们/西摩小传》,这两篇以前只读过八十年代的简陋译本,现在丁骏的译本特别和我气息相同,因为我们都是少年读塞林格长大的忧郁者。塞林格的叙述者总是在缅怀他们那位超凡脱俗的兄长西摩,而西摩之超凡在于他不需要尘世缅怀但又体贴这尘世——这点比晚年的决绝隐士塞林格做得好。《抬高房梁,木匠们》一篇写的正是那转折点,弟弟赶到哥哥的婚礼,哥哥已经逃走,弟弟觉得彪悍的人生不需要解释。“西摩曾经说过,终此一生,我们所做的事情无非从一个小小的圣地走向下一个小小的圣地。”《西摩小传》最后作出了解释。

当然《张枣的诗》和《商禽诗全集》也是这种为了告别的阅读,这两位两岸最优秀的诗人、诗人中的诗人,都在去年离我们而去。《张枣的诗》三言两语难以曲尽其妙,我正在写一篇细读文章。商禽先生倒是可以在此追怀一番。其实就在差不多二十年前我刚刚开始写诗的时候,我就为商禽先生所震动。中学图书馆里一本四川诗人流沙河所编的台湾诗选是我学诗营养之一,商禽先生的名篇《长颈鹿》等赫然在目,恰如长颈鹿的茕茕独立怪姿大别于其它诗人。其时我的最早启蒙是鲁迅先生《野草》集,在蒙昧之间恍惚有所醒、而开始写诗,写的就是散文诗。商禽先生亦是以他独一无二的散文诗吸引了我——中国新诗史上往往是写散文诗的人最怪最独立:鲁迅、商禽和昌耀皆如此。散文诗就如蝙蝠,有兽之剧烈和沉郁——如一篇雄辩的杂文但是不讲逻辑;有鸟之俊逸和虚无——如一首支离的诗但是纵横开合。而一首能比为神作的散文诗还要在前两者上加上蝙蝠的隐痛:在于其昼伏夜出所满目的黑暗与星子的芒刺、在于其扑动肉翅时必须付出的全身的力量。商禽先生的杰作皆如此,情、意惟深,着力惟重。

去年七月二十九日台北华山楼有商禽先生追思会,为了避开政客和名流,我故意在追思会结束后前往默哀,但我还是来得太迟了,现场只剩下二三工作人员在收拾横幅与鲜花,此外空空荡荡,一如我想象的诗人所想象的珙县故居之空空荡荡。在第二天飞回香港的飞机上,我有诗纪念、亦是不堪纪念,这次不遇,这次永诀。

……飞机在碎诗般云上,/搬运山河林泉的人在冻云般路上,/大风的上面也依旧横迭了一百遍大风。/我和两个孩子一起收拾了你的花篮,//舞台太空旷,我们走到岛外/看太平洋如野溪,我们的故居无人……

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